祈り

自分自身のことを突き詰めて考える(己の最も汚く最も弱い、本来ならば一等目を背けたい部分と真向かう)、己の不甲斐なさに耽溺し退廃的な自慰に走るでもなく、居直る癖に他者から忘れ去られる覚悟も持てずに蹲るのでもなく、つとめて聰明に、思慮深く、常に答を疑い問を出し続けてただひとつの在るかどうかも分からない光へと向かう祈りのような力を持つひと、そんなひとと共に生きられたら、一体どれだけ幸福なのだろう。

わたしの神さん

溺れるナイフ』を二回観た、叶うことならもっと観たい、永遠に観ていたい。二時間の中にはわたしの人生が在ったから、わたしはもう泣いて泣いて、音がきこえるほどに痛切に分かってしまう。わたしの神さん、わたしの神さん、わたしの神さん。わたしの神さんは死んでしまった。人間になってしまった。はなから人間だったのかも知れない、けれどあの頃のわたしにとって、きみは神さんだった。
現在生きている変わり続けているきみをわたしはもうずっと前から知らない。きみが生きる限りきみは変わり続け、どんどん神から遠ざかってゆくのだろう、それなのに、わたしの中から神としてのきみが消えない。きっと一生消えないのだ。もうあの頃のように人を愛することは出来ないのだという残酷な光をわたしは抱えて生きている。
「菜々子はわざわざ辛い方、辛い方へ生きている気がしていた」と言われた、なあ、お前は良かったなあ、お前は逃げ場があって良かったなあ、ふつうに幸せになれて良かったなあ、わたしにはなあ、逃げ場なんて一生無いんよ。神さんとしてのお前が消えんのよ、あの頃のお前とわたしを、わたしは絶対裏切れないんよ。わたしがどんどん、神さんになるしか生き延びる術は無かったから、わたしは逃げることなんて出来なかった。そもそも、わたしにはもう、逃げ方なんてとうに分からなくなってしまった。
この身ひとつでいちいち傷付いて最強になっていく、永遠に孤独のまま。永遠にわたしの神さんの背中を追いながら。分からなくていい、分かられて堪るか。あれは、あのすべては、わたしだけのもんだ。わたしだけの宝物だ。誰も触らないで。

料理長の音楽は豚肉の焼ける音だった

自分でも気付かぬうちに、ガキの頃のように人を操ろうとしていたことに気付き愕然としたのが先週の夜。誰もわたしを呼んでくれなかったから、誰よりも巧く笑って美味く鳴いて甘く眉根を顰めることで人を何とか引きつけようとする所作が、あまりにも長けてしまったみたいだ。
多分愛情の示しかたも方向も線も全然基軸が違って、その差異に押し潰されそうになる、新しいルール、もう二度と人を操るな。分からないということに何度も打ちのめされ分かったかも知れないというおめでたい勘違いにきらめいて再び分からないに直面する、わたしは早く人間になりてえだけなんだよ。
分かり合えるなんて到底不可能で、ならばせめて、わたしだけはあなたを分かりたかった。わたしがこんなに毎時間毎時間身を焦がしながら悶え強く願うそれすら容易く目の前で割れた、わたしはあなたの目の前で生きていて、ねえもっとわたしに触って、もっと確かめて、そんなにわたしを朧にしないで、どうして分からないの、どうして分からないの。わたしはどうして分かりたいの。 あなたを分かりたいだなんてそれは多分違くて、わたしはきっと、人間になりたかっただけだ。なにものにも縛られず、当たり前のように目の前で生きている大切な人を信じ、直ぐに愛することが出来る人間に。呪いはまだ解けない。

毎日楽しく平穏に優しさをテイクするなんてわたしに出来る訳がねえし昨日だってクソみたいな2年間のPTSDから派生した胎児の頃から受け続けてきた様々なことに対する怒りが暴発して一夜明けた今じゃもう凡ゆることに対する気力が失われて抜け殻みてえになってっし、それでもバイト行くわたし偉くねー?マジでしんどい時は誰にもSOSなんて投げられねえな彼氏に会いに来てなんて言えねえな言えたらどんなけラクになんだ?それともまた地獄か?今日は昨日の寒さが嘘だったかのような暖かさと快晴で、やめてくれよこういう時はそういうのが一番ヤベェんだって、自分と外界との剥離が顕著になってね、あーもう全部どうでもいいな、今あなた幸せでしょう今を見なさいよなんてねそんな、親に棄てられたこともレイプも虐待も虐めもDVも浮気も嘘も自分の身ひとつで何とか生き延びたことも全部ね、全部あったことなんだよ、この身体に、全部刻まれてて、あーうざってえなあ、こんな地獄なら、生きても死んでも地獄なら、もう何も要らねえよ。

5.7 私信

普通に正社員として週5で働きそこそこ稼いで生きなければと誰に課された訳でもないのに思い込んでいた時期があり、いざ仕事を始めてもどうしたって1時間に1度は逃げ出したくなっており、「どうして皆が出来てることがこんなにも難しいのか、わたしはマジで普通になりたいんだよ」と思って震える日々がわたしにもありました、ウケる。
結局職場がブラックだと判明し体調を壊しまくり辞めざるを得なくなり退職し、今では喫茶店とパブのアルバイトで生活しています。普通になりたくてもなれなかったから、もう社会的視点とか社会的常識とか一切合切うっちゃって自分の感覚の赴くままに生きたら、普通になりたいなんて思わなくなったし寧ろわたしは全然普通になった。まず社会に適合出来ない人間が社会を意識して生活する時点で無理なんですよ、気付くの遅過ぎ、ウケる。

お金が無い事に焦らなくなったし特に欲しい物も無いし(ごめん、CDと本は欲しい)大自然になれればそれで良いと本気で思っているんだけれど、消費=ステータスだと信じてる人に伝えても中々信じては貰えないし、魂も体力も物も金も消費することが幸せなのではと押し付けられ、その余りの差異に辟易してしまう。

学園時代は畜産にも園芸にも入らず大好きなまっつんと石鹸をこねくり回していたわたしですが、今なら俄然畜産したいし何なら牛のウンコ被っても爆笑してると思う、そしてきっと再び石鹸もこねくり回す。様々な生活を繰り返し、やっと自分が何に対して喜びを感じるのか分かってきました。
ずっと「わたしは擦り減らしながら生きていかないと命取られる人間だ」と何故か思い込んでいたが、そうでもなかった、死ななかった。案外死なない。何も考えなくとも好きなように生きてても許されてしまったしきっとわたしはずっと許されていた、神的なアレに。社会は知らん。

豪勢なディナーに連れて行かれるより、そこら辺で鳥が飛んでりゃわたしはもう嬉しい。みんなには足りなくても、わたしには足りてる。お気に入りの服はもう何着も持ってるし、好きな音楽だってもう知っている。みんなには足りなくても、わたしには足りてる、暫くは、やっと見付けることが出来たこの新しい生き方で生きていきたい。


日々の穴

『怒り』という映画を母親に勧められて、あまりにも勧めるものだから観に行った。それからというもの、過去に自分に行われた散々な行為を毎日少しずつ思い出しては毎日落ち込み、改めて自分の育った家庭の歪さに気付き絶望する。わたしに降りかかった事を知っていながらこの映画を勧めたわたしの母親はやはりどこかキチっていたということに、何よりもショックを覚えた。
映画自体は本当に本当に素晴らしいものだったのに、あのシーンが何度も何度も何度も何度も繰り返し繰り返し頭の中でリフレインするからわたしはもう内容どころではなくなってしまう。
母親になることの恐怖を恋人に話したら「きっとみんな怖いんだよ」と言われた、その時はすこし救われた気がした、けれどわたしが抱えているものはそんなレベルの話ではないのだという事実にブチ当たり、本当に家族というものに対して諦めはじめている。
父親はわたしを棄てたし親も兄弟もわたしの庇護者ではなくずっとずっと敵だった、憎んで憎んで、起きては憎んで眠っては憎んで、許せるのならとっくに死んでるし許せないなら殺してるような毎日を何とか生き延びて、誰も殺さずにここまで生き延びて、普通の家庭なんかわたしは知らないしそんなわたしに家族の作り方が分かるはずがないんだよ、そもそももう家族なんてもの、わたしは全然欲しくない。
自分を憐れむつもりは毛頭無い、人生卵子精子からやり直せるとしてもあのクソッタレな出来事以外は全部変えずに生きてやる自信がある、けれどもどうして、こんなにも今更になって苦しくなる、今更だよ。
これから好きなひとが子供を欲しそうな素振りを見せる度に、きっとわたしは絶望し続けるのだろう。どこまで話せる、どこまでアンタは受け止められる、いつまで、いつまでわたしはこの呪縛に囚われなきゃならないんだ。母親が死んでも父親が死んでも、わたしはあの虫ケラと対面しなけりゃならない、そんなの、殺した方がマシだ。死んでくれ、お願いだから死んでくれ、わたしからわたしの穴をくり抜いて棄ててしまいたい。