泣くかもしれない

テアトル新宿で、海を感じる時という映画を観てきた。
観ている最中や帰りの電車の中では完璧に主人公の女の子に感情移入をしていて、一歩歩くたび、どこかの店に入るたび、角を曲がるたびに彼女がわたしにおりてきた。キリキリという音が聞こえてきそうなほどだった。
わたしを見抜いて。
わたしどっちも要らない。
あなたどっちが欲しいのかはっきりしてくれなくちゃ堪らないって呟いてわたし泣くかもしれない。

「僕はきみの中身なんてどうだっていい。きみのことが好きな訳じゃないよ。ただ、女性の体に興味があっただけなんだ」と言う高橋洋のことなんて全然分からなくて、ただ分かることはわたしの周りには高橋洋みたいな男の人がたくさん居たし今だって居るなあということだった。高橋洋みたいな男はゴミだと思った。

夜、花火を再び見送って、駅でジャンケンに勝ってあの街に向かった。駅に着いてもわたしは暫くひとりで何処にも行かずに、泣くかもしれないをずっと聴きながらただうろうろと煙草を片手に彷徨していた。
布団の上で、わたしは高橋洋と全くおんなじなのだと気付いた。彼のような人はそのような自分の性質を自覚していて、わたしに足りなかったのはその自覚だけだった。わたしは全くあっち側の人間なのに「きみ」とか「あなた」とか「あのこ」とかの感情や過去を考えよう想おうとしていたから訳が分からなくなっていたしすべてのあとには虚しさがいつだってわたしにのし掛かっていたんじゃないか。
そう考えたら、他者を自分の道具として媒体として、何の不自然さも無くすんなりと無自覚の内に扱ってしまうこととも辻褄が合った。
わたしは彼女ではなくて高橋洋だった。
ほんとうはどうでもいい中身を見よう見ようとしていたから苦しかったのだ。わたしはあのひとあのひとあのひとの中身なんてどうだって良かったんだ。ただ、容れ物に興味があっただけなんだ。

わたしは、何年も何年も憎み苦しみ叫び続けてきた人間たち側の人間だったのだ。
あんなにも、ふざけるなわたしだって生きてんだそんなに欲しいならこんな容れ物、わたしから切り取ってくれてやると眼をギラギラさせながら怒り続けてきたその怒りや慟哭は、すべてわたしの上に跨ってきた男に対するものではなく、わたしに向けられたものだった。やっと分かった。こんなにも激しい感情に突き動かされ揺るがされるにも関わらず容れ物をどうして差し出してしまうのかも。そしてそのあとわたしを襲う正体も。やっと分かった。やっと、やっとだ。そういうことだったんだ。

それに気付いてからのさよならバイバイまたねは、わたしを襲ったりしなかった。