ある宗教

金を作らなければ、と思った。
どんなに新しい人間環境が無理で、労働が苦行でしかなくて、学生の頃に1年半行き続け苛められ続けた実習と前の職場でのトラウマがデカくても金を作らなければと思った。
そもそもこんなこと毎日思っている、バイトのシフトが沢山入った給料に余裕のある月はすこしだけこの考えから解放されるが、わたしは基本的に税金光熱費保険料家賃奨学金年金を支払い手元に残る金は毎月4~5万の中でなぜか生き延びられているので1年12ヵ月のなかで9ヵ月くらいはこの考えに囚われている計算になる。
わたしは言葉に対して馬鹿正直なので様々な求人サイトをキリキリ痛む頭を抑えながら崖っぷちに立ち足元で崖の石ころがゴロゴロ崩れ落ちる音を聞きながら何とか眺めても「人の役に立ちませんか?」「お客様から感謝されるやりがいのある仕事です!」という文言が目に入った瞬間「あぁわたしには到底無理です」と諦めブラウザを閉じ煙草を吸い所持金の勘定をして絶望する。

「人に喜んでもらうことほど幸せなことはない」が分からない、わたしは誰の為にも生きたくない。

誰かの為に生きる・生活を送る事を幸せだと素直に感じられる人とその真逆であるわたしの違いは一体何なのだろう、実父には棄てられガキの頃から死ぬことを学校の人間や母親に願われて、果てにはこの世界から消え去ることを自分自身からも願われ、ある時期から何とか友達や教師に恵まれ親との付き合い方も学んだけれどそんなウン十年の中では「誰かの為に生きる」の土台がまず無かったし(今でも無いし)ずっと「自ら死ぬか、はたまたあらゆる"正しさ"を踏み付けてでも生き延びるか」だったからなのか。
道端の手助けや接客等分かりやすい単位で言うなら見ず知らずの人に感謝されても「いえいえ」で終わるし、人生の規模で捉えるならたとえ友や恋人の為にも生きられないし何も選択したくない。これが生きづらさの根にもなっていると同時に、真っ当な感覚なのではないか?とも思う。
わたしは誰の為にも生きたくない、かつて幾度と誰かの為に生きてみて(勿論その最中にはエゴも沢山あった)、それは尽く踏みつけられた、生きた対象からも、自己からも、どうしたって、わたしはわたしの為にしか生きたくない。
わたしは、わたし自身にずっとずっと「お前なんか死んじまえ」と吐き続けてきたわたしにとっては、わたしの為に生きることが精一杯であり、大いなる祝着なのだ。