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Iso phase

彼とよく待ち合わせた場所は、渋谷にある古い名曲喫茶だった。
店内はいつも仄暗く、そこそこ大きな音量のクラシック音楽が空間を充たしていて、かしましいおしゃべりは禁止のところだったから、彼とわたしはいつだって会うやいなや筆談を繰り広げていた。
それでも彼は普段から口数が少なく、言葉よりも皮膚で何かを語ろうとするひとだったので、紙や携帯を埋める文字は少ない方だったと思う。言葉数の少ない彼が使う少ない言葉たちはいつだって思慮深さと文化資本の高さを匂わせていた、わたしがよくつく下品なジョークに対しては子供のような顔をして嬉しそうにくつくつと笑った。
彼の声は木管楽器のようだった、空気を破ることなく周りの空気を震わせる。わたしはそんな声を愛していた、どれだけ残酷なことを告げられようともわたしは皮膚を泡立たせながらその声だけはずっと愛していた。
彼は自分の選択により欲しいものをいくつか抱えることにした、その欲しいものたちが相反するものだとしても。その選択により、彼は抱えてきたもの全てを失い、遠くへ行くことにした。遠くへ行けば、存在を薄められると思ったのだろう。祈りのようだとわたしは思った。

瞳に湛える輝きや凛と上を向いた美しい骨格の鼻筋、長く震える睫毛などから、一見知性に富んだ人物だと思いきやその実まったくそうではなく、文化的趣向や己の脆弱さと間向う強さなど全く持っていないひと。とてもとても、浅くつまらないひと。瞳から始まる恋を知らないひと。己の欲望を埋めることと存在を誇示することだけに躍起になり、真摯に見詰めれば見詰めるほどなにも存在しない空っぽのひと。背中に刻まれた模様がほんとうに美しいひと。
まるで天使みたいなひと。