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映画

登場人物の気が狂って死んでしまう映画の途中の、まだ自分の思い通りに脚を動かし走り合って笑い合う黄色い光やジュテームが木霊する木洩れ陽の眩しさのように、どうしてこのままこの一瞬で止まってはくれないのだろうか。どうして走り続けることと失くすことはいつだって共存してしまうのか。どうして輝く時間はいつだって終わりを告げるのか。始まる前から終わっている。始まりの瞬間から終わりの瞬間を考えてしまう。その時の幸福に浸り滴ってわらっていたいのに。
髪の毛を焼いてバケモノみたいな化粧をしたベティを前にした彼はテーブルの上のトマトソースを自らの顔面に塗りたくった。同じバケモノになろうとした。

「書いてるの?」
「考えてたんだ」


身体の輪郭が顕著に感じられている。この感覚は今に始まったことではなくずっとずっと在る事だった、深い哀しみなんてとっくに知ってるよね。身体の輪郭が邪魔で出来るだけ薄くしたい。ふと視線を落とした時に映る自分の太腿がぶわんと膨張しているのに気付いて心底気持ちが悪いと思ってしまった。痩せたいという気持ちではない今わたしが見ている物は質量ではなく輪郭なのだ。質量ならば寧ろすかすかと軽い感じがする。身体のどっかの内側からどんどん静かに空洞が広がっていく気がする。いっそのことその空洞に呑まれて外側と内側が翻ってしまえば面白いのに輪郭があるからねわたしたちは。
言葉を愛しすぎるが故に言葉をあまりにも信じ易く、そして言葉を自分でも気付かぬ内に刃にしていた。わたしの愛してるも苦しかったもどうしても、誰かの喉元に刃の切っ先を突き付ける行為ならば、わたしは一体何の為に発語していたのか。一体何の為に話そうとしているのか。出逢うだとか何だとか言って、その実自分の醜い狡猾な姿から目を反らすことだけは周到だったのだ。どうして逃げようとするのか。穢い自己を見たくないからでしかなかった。コミュニケーションとは暗闇から手を伸ばすことだという一文を読んだ時ああそうだと音が聞こえた。黙している事と盲になることは違うというのにわたしは今だって上手に出来ない。
どうして腕の中にある体温だけを信じ、それに安堵し生きていくことが出来ないのか。わたしたちは考えすぎたのかも知れないからウミガメになると良いのかも知れないね。