おとぎ話みたい

私の生きている世界では、言葉に一生なれなかった、けれども確かな光がありました。

どうしようと思った時には心はいつもどうしようもなく、足りないと思うということはかつて満ち足りていたものがあったという証左にほかならないのだが、いつも不在だけがその人の輪郭をかたどるように、今私が手にしているものなど何もない。
もう時間はなく、私は若くないのだな、と思う。相手のために何だってしてあげたいという気持ち同様に、相手のために引き裂ける時間というものの、その上限が、喉元に迫って初めて、そのあまりの手遅れに気づくのだ。
私が彼のためにしてあげられることが、もはや何もないということが、そのまま断絶を意味してしまう。私の愛だけが、関係性の全てだったのだ。
いつでも捧げてる、という誓いだけが宙ぶらりんになっていく午後の、この時間すら、おとぎ話のように包まれてゆくことの、悲しみよ。



テアトル新宿でおとぎ話みたいという映画をレイトショーで観た。スクリーンの中で飛躍する少女はかつてのわたしであった。ああこんな風に、あまりにも鮮烈で堪らないのに行き場のない感情でもって誰かを愛したことが高校生のわたしにもあったのだ。そしてそれはきっと片想いでなければ成立しなかった日々だった。
主人公の少女がラストシーン、踊りながら屋上まで駆け上がり、言葉を紡ぎ出しながら言った「先生私はあなたにキチガイだって思われたかった、後にも先にもいない女の子だったなって焼き付けて忘れないでいて欲しい」という言葉はスクリーンを飛び越えて客席に座るわたしの胸を突き刺した。
あなたにキチガイだって思われたい。どんな形でも最早構わない、あなたがわたしを薄くすることなく色褪せずに記憶に焼き付けるならば何だっていい。
「容易く触れることが出来てしまう現実より、決して触れられることのない光として存在していたい」、ねえあなた、どうして分からないの、どうして分からないの、どうして。

本当のラストシーンでばっと映る、暗い部屋でひとり、おとぎ話なんかで終わらずに夢を叶えた少女を動画サイトで見詰めながら涙を流す先生の姿。
エンドロールで映る、少女と先生のきらきらしい幸せそうな生活の風景。
映るものは幸せな光景なのに、どのシーンよりも痛々しかった。これは嘘だと、わたしが信じてしまっているからなのだろうか。


少女は踊ることを卑しいことだと言う。しかし少女はその卑しささえ抱き締め踊る。その踊りは凡ての抑圧からの解放に見えた。彼女にとって踊ることが肉体という容れ物からの解放もしくは統合なのだとしたら。踊れないわたしにとってのそれは何なのだろう。

ここに在る物語はかつて少女だったわたしの物語だけではなく、現在を生き続けているこのわたしの物語でもあるのだと思った。かつてわたしが少女だったのならば、その少女は決して消えることなく今だって変わらず21歳のわたしの中で息衝いているのだ。映画の中の台詞のひとつひとつに、かつてのわたしが刺されることもあれば21歳のわたしが抱き締められることもあった。 

この映画はダンスだ。言葉なんかで感想を紡げる筈がない。
映画を観終わったあと、夜の新宿の街を走った。不思議と息が切れなかった。体温だけが上がっていった。
おとぎ話みたいだって、いつでも笑ってばかりの君に。