わたしを見て、何でもいいんだよって笑って。

ブルドーザーデモへ向かう電車に乗り込もうとすると、開いた電車のドアのところに涎を垂らしながら虚ろな目をして座っている男が居た。明らかに何らかの障害を持っていると分かる様子だった。
体調が悪いのか、どうしたのか、ひとりなのかと考えながら当たり前のように何もせず電車の椅子に座った。
暫くすると男は立ち上がり歩き出し、一人の男性の元へ行った。男性はその男よりも歳が行っているようだった。
男が涎を垂らしながら真向かいの椅子に座ると、男性は嬉しそうに歩み寄り、スポーツドリンクを渡し、男の隣に座った。どうやら父親らしい。
また暫くすると、男が再び歩き出し、最初と同じようにドアの前に座り込んだ。手は反り返って曲がっていて、爪がすこし伸びていた。お腹が出ていた。涎が、さらさらとした水のように口から垂れている。わたしはその姿を見ながら、この間瞳と話した「差別と区別の違い」のことを思い出す。わたしのなかに、圧倒的に確実に、差別は存在しているな。だって開いた電車のドアからこの人見たとき「うわ」って反射的に思ったもんな。わたし多分このひとがゲロ吐きまくって鼻血でも垂らしていない限り、困っていそうでも何もしないかも知れないもんな。最悪だな。
そんなことをつらつら考えていると、父親と思わしき男性が男の元へ歩いて来、男を近くの椅子に座らせた。そして手に持っていたピンクのタオルでツルツル垂れる男の涎を拭いた。涎を拭かれた男は、心底嬉しそうに笑った。男性の方を見遣ると、心底愛おしそうに微笑んでいた。美しかった。
男が曲がった手を振ると男性はその方向を見る。お互いの目が、ばっちり合っている。電車の窓から射す真夏の光が白い。男性の目は、この世界上で一番柔らかいものだった。
そんな光景を眺めていたら涙が出てきた。どうしてこんなにも泣いてしまうのか考えた。ただ、圧倒的に美しかったからではない。それだけではなかった。目の前の景色は、わたしがずっと昔から、ずっと欲してきたものだった。わたしが小さな子供のときから血反吐が出るほど欲してきて、そして手に入らなかったものがそこにはあった。
柔らかい微笑みを湛えて男を見詰める男性のちいさな背中に、おとうさん、と心の中で言ってみる。おとうさん、おとうさん、おとうさん。わたしのことも見て。わたしのことも、そんな目をして微笑って。何も言わなくていい、言葉なんか要らない。その眼差しの前では、何もかもが無力だ。彼が男に向ける眼差しは、「赦す」眼差しだった。すべてを赦して抱き締める眼差しだった。
わたしはずっと、そんな眼差しに抱き締められたくて、今でも生きているのかも知れない。
おとうさん、のかわりに、かみさま、と心の中で呟いてみる。
かみさま、あなたに会いたい。