Iso phase

彼とよく待ち合わせた場所は、渋谷にある古い名曲喫茶だった。
店内はいつも仄暗く、そこそこ大きな音量のクラシック音楽が空間を充たしていて、かしましいおしゃべりは禁止のところだったから、彼とわたしはいつだって会うやいなや筆談を繰り広げていた。
それでも彼は普段から口数が少なく、言葉よりも皮膚で何かを語ろうとするひとだったので、紙や携帯を埋める文字は少ない方だったと思う。言葉数の少ない彼が使う少ない言葉たちはいつだって思慮深さと文化資本の高さを匂わせていた、わたしがよくつく下品なジョークに対しては子供のような顔をして嬉しそうにくつくつと笑った。
彼の声は木管楽器のようだった、空気を破ることなく周りの空気を震わせる。わたしはそんな声を愛していた、どれだけ残酷なことを告げられようともわたしは皮膚を泡立たせながらその声だけはずっと愛していた。
彼は自分の選択により欲しいものをいくつか抱えることにした、その欲しいものたちが相反するものだとしても。その選択により、彼は抱えてきたもの全てを失い、遠くへ行くことにした。遠くへ行けば、存在を薄められると思ったのだろう。祈りのようだとわたしは思った。

瞳に湛える輝きや凛と上を向いた美しい骨格の鼻筋、長く震える睫毛などから、一見知性に富んだ人物だと思いきやその実まったくそうではなく、文化的趣向や己の脆弱さと間向う強さなど全く持っていないひと。とてもとても、浅くつまらないひと。瞳から始まる恋を知らないひと。己の欲望を埋めることと存在を誇示することだけに躍起になり、真摯に見詰めれば見詰めるほどなにも存在しない空っぽのひと。背中に刻まれた模様がほんとうに美しいひと。
まるで天使みたいなひと。

あまりにも美しい口上筆記(ラジオ)

「結論を先に言おう。驚くことに、だ。愛に飢える必要も、愛を諦める必要も、愛を恥ずべき必要も、愛を憎む必要も、あなたには最初から、全くない。

AMラジオのパーソナリティーを始めて二年を過ぎるまでの間に、僕は様々なことを知った。物知りになるのは悪い気分じゃない。でもそこには、常に知りたくもないことまでが含まれている。この国の国民がこれほどまでに恋愛に飢え、恋なんてしてないさと信じ込んでる奴さえがあらゆる形で恋に飢え、ほとんどの精神生活を恋と恋の妄想に費やし、あらゆるジャンキーがそうであるように、依存の後遺症によって一歩も動けなくなってることがその一つだった。ソウルバーでこんなことを言うのはちょっと大胆だが、はっきり言おう。ハンドルを右に切って、恋なんてやめちまえ。全ての妬みの根源、愛への全ての障壁はそこにある。

僕には二十世紀、ものすごい可愛い恋人がいた。どのくらい可愛いかといえば、デートして一緒に歩いていてもナンパと水商売の勧誘が全く止まらず、五メートル進むのに一時間もかかるので、デートにならないのだった。ある日など、公園のベンチでキスしていたらナンパされた。瞳孔を完全に開かせて彼女に愛の言葉を捧げる男に対して、僕はこう言うしかなかった。「あのさ俺たち今キスしてんだけど」でも彼には全く聞こえなかった。僕が言うより一瞬早く、彼女は僕が言おうとしていることを言った。「気持ちはわかるわ、じゃあね」再びキスしながら歩き去る僕らに対して、彼がとった行動を想像できるだろうか。十メートル歩いて振り返ったら、彼はなんと、オーアールズィー、その場でひざまずき、涙を拭っていたのである。懺悔する南部の労働者のように。

そして、彼女は完全に頭がおかしかった。美しいものを妬んでそれでよしとしている人間はお気楽だ。まずは父親の視線がおかしくなる。やがて彼女のパパは、風呂に入っていると必要以上に体を洗いに来た。母親は嫌味以外何も言わなくなり、やがてにらみつけるだけになった。どこに行っても男たちに欲情され、女たちにいじめられた。死んだネズミを口の中に入れられたことさえある。フェラチオするとき彼女は、必ずその話をしてからした。心の中で僕はこう言った。愛を。

だが、僕の祈りもむなしく彼女は体のあらゆる部分をカッターで切るようになり、僕と別れ、ノルウェーの精神病院に入った。彼女に言いたかった。寒い国なんかに行くな、亜熱帯を目指せ。彼女だけじゃない、傷だらけの美しいものたち全員に僕は言いたい。亜熱帯を目指せ、亜熱帯を目指してくれ。この曲のように。亜熱帯を目指すんだ。この不細工なソウルシンガーのように。

リトル・ビーバーことウィリアム・ヘイルは、第二次世界大戦終結と共にアーカンソー州で生まれ、十代でマイアミに移住した。そして様々な経験ののち、一九七五年にはマイアミソウルの最高傑作と言われるこの『パーティー・ダウン』をドロップする。ここでリトル・ビーバーは、ジョージ・ベンソンの『ブリージン』よりも一年早くギターとスキャットのユニゾンを披露し、リズムボックスとの共演をマイアミで果たしている。パーティー・ダウン、TBS以外でお聞きの皆さん、お名残り惜しや、ここでお別れです。

あまりの名残り惜しさからソウルバーでのタブーをちょっとだけおかすことにしよう。ソウルバーでは良い曲が終わると、どんなにもう一度聞きたいと思っても次の曲が始まり、人生が進む。皆さんがもう一度お聞きの曲はリトル・ビーバー、そしてマイアミソウルの最高傑作『パーティー・ダウン』
異常気象によってまだ寒さに震えている人たちに夏の先取りを。五十年後この国は、タイやチェンマイと同じ気象になると予想されている。トロピカルカクテルで祝おう。僕らが暑く長い夜の住民になることを。」

皮膚

夏に始まって夏が終わるころに終わった愛を皮切りにして、わたしの中の恋慕が枯渇した、どうやら途方もない行く末にすべてを出し尽くしたみたいです。
誰をもわたしの琴線には触れず、傷を傷以外のなにかに変えるちからも持たず、わたしはただ変わり映えのない、時にはとても楽しく時にはすこしだけ憂鬱な平和な日々を遣り過ごしながら肉体を己のものとやっと自覚し、その自覚も手伝ってかその瞬間瞬間に生まれた欲望のみを真っ当に充し、対象を持たない寂しさにも襲われず、愛するひとを持たずに生きている。

あの夏のにおいや温度や触り心地が蘇る、柔らかい声が蘇る、こんなにも容易くわたしの琴線は再び震えた、わたしはどうしてこんなにも容易い。
傷を傷とも認識せずに自然と愛おしんでしまうあなたは何て狡く美しいのだろう、決してわたしのものにはならないのだからわたしは再び震えた琴線を見なかったことにして今日も変わり映えのない生活を再びはじめる。
思い出すことはいけない、思い出さない。

まち

我が生活拠点の町に澁谷くんが訪れたのは二回目で、一回目同様にこの町のことを賞賛していた。
"生活の町"といった具合に田舎なところなので空が広く樹々が多く、それも中々に彫刻性を持った樹ばかりで空はよく見えるし団地もあるし夕方にはちゃんと知らない家から夕餉のかおりがする、田舎だから謎の空き地が出現したり、立派な鯉が泳いでいる川があったり、わたしのアパートの近くには山があったり、いつも同じ時間、同じ場所に礼儀正しくじっと座ってる猫も居る。
この町の良さはわたし自身も感じてるはずなのに、何も分からないふりしてどこが良いのか何度か訊く、そうやって、他人の視点に潜り込む。そういうことを試みる節がわたしにはあって、面倒臭え〜と我ながら感じる。
この町の何がどう良いのか訊いたら、澁谷は「ロケーショナル」と言っていた。


別にどこにもいたくないから何処だっていいよここにいてくれよ

きみの部屋に女が来てきみに触って帰っていった
それは夏の終わりの夜だった
きみは女の肌を思い出しながら不味い弁当を喰って寝る
女の肌は白くて汚い肌
女の肌は白くて汚い肌

わたし誰とでもやっちゃうの、わたし誰のことも愛してないの
それは僕もだよそれは僕も同じだよ
僕はきみの名前すら知らない
僕はきみの歳すら知らない
だってどうでもいいからね
きみよりYouTubeで観るコントのほうがおもしれえ

きみの部屋に再び女がやって来た
それは馬鹿みたいに晴れた真っ昼間
女とふたり煙草を吸って
手を繋いでみたら女は泣いた
女の目は濡れている
女の目はきらきらきらきら濡れている

お昼前に手を繋ぐとまるで愛みたい、ねえもう少しだけここにいさせて夜になる前に消えるから
僕はきみのこと知らない
僕はきみのこと知りたくもない
こんなの笑えるくらいくだらねえ
はやく膝からどいてくれ脚が重くて敵わない

きもちいいなきもちいいなきもちいいなきもちいいな

この日記絶対誤字ってる

バイト先の上司が酒を奢ってくれて、この人に奢ってもらうのは二度目、一度目と同じように彼はとても楽しかったと言ってくれた、ほらやっぱりわたしはエンターテイナーと思いつつも彼のことを人間としてとても好きだし酒は相変わらず美味いしってんで良い具合に酔っている。 
半ば酔ながら牛乳とおりものシートを購入、レジでお釣りを上手く受け取れなかった、そのままジャリ銭はレジの向う側へ落ちていった、店員は拾ってくれなかったからわたしはその小銭を見過ごすしかなかった、ジャリ銭だってわたしの生活には不可欠なのに。悔しい、遣る瀬無い、いらっしゃいましてはさようなら、いらっしゃいましてはさようなら。ずっとずっとその繰り返し。手が悴んで上手く打てやしない、ずっとずっとその繰り返し。
好きかもとか気持ち悪くて全然いいよとか思った相手にも飽きちゃってさようなら、返事遅すぎて飽きたさようなら、わたしはもう、返事の遅すぎる理由が何か分かる、分かるくらいには女になった、わたしの肉体に空いてる洞穴がこんなにも深くてジメジメしていて暖かいなんて知らなかったでしょ凡てを知った気でいた14歳、酔っぱらいながら公園の柵に腰を据えてこれをひたすらゲボのように打ってるわたしはあなた方が呼ぶキチガイですか?愛してるひとを傷付ける為に吐き出した過去の傷、どうせ当たらないミサイルで威嚇したから、愛してるひとにはなんの効果も無かったみたい、ちょううけるね、俺は弱いからまた股開いてくれるよなだったね、車はわたしみたいな酔っ払いを避けて走らなくちゃいけなくて可哀想、わたしも年中自己愛と自己恋慕に酔ってる酔っ払いを避けて走らなくちゃいけなくて可哀想、みんなみんな可哀想、自分のまま生きちゃいけなくて可哀想。

大森靖子ちゃんブログ引用

君に届くな



こんなに狭い部屋で本を読んでも
私が私だということだけが普遍で
幸せが一番独創的でなければと
思うほどともだちと相違する
扉は重くなる 自分でも開けられないほど
私が透明になれば外に出れる 今日の予定は
靴底にべったり張り付く孤独を
だらしなく歩いて拡散すること
赤い電車もなくなったし
手垢のついた夢じゃドキドキできなくなっちゃった
言葉にならない みたこともない 誰も知らない 頭のおかしい平和を望んでいる
こんなのありかよ〜ってやつじゃないと 私が平和に殺される
誰にも似てない人なんて気持ち悪い
ベージュのコートだけは買わない
誰かが 私の中の私じゃなさにお金を払った 気持ち悪い
こうして食べて、生きて、こころが膨張して、なにかが削られて、気持ち悪い
その全てを、全世界にぶち撒けたい私の全てを、
君にだけは届けたくないほど
君が好き